山の手空襲と旧制東京高校

副校長より

本校の元国語科教諭で、地域研究者・郷土史家・作家として活躍されている木村健先生(ペンネーム:きむらけん)が綴られているブログに、東大附属学校の前身とも言える旧制東京高校に山手空襲の際、大勢の方が避難されたことを書かれています。詩人の北川冬彦もその1人でした。

以下、先生の許諾を得て転載いたします。

下北沢X物語(4387)―記録:山の手空襲と旧制東京高校 1―

創立60周年記念式典を安田講堂で行ったときのもの。
このときに記念歌『われらは未来への架け橋』が初演された。
これを作詩されたのが木村先生

(一)
かつての勤め先の副校長先生から塚原哲朗さんを紹介された。彼は中野区の平和団体を主宰している。
来春に空襲の現場をフィールド・ワークをされるとのこと。中心になるのが旧制東京高校・現東京大学教育学部附属中高等学校である。学校の最寄り駅は京王線幡ヶ谷だ、震災以後、線は開通していたことから一帯には下町から大勢が移住してきた。それで住宅密集地が形成された。戦争末期の5月24日25日、山の手空襲があった。木密地域は焼夷弾に襲われて大火災が起こった。南風は一帯を火の海にした。渋谷区に住む被災民は北へ逃げた。隣接した中野区には広大な敷地を持つ学校があった。東京高校である。折からの風は火を呼び、火は風を煽った、回りは火の海となった。逃げ場を失った人々は大勢がこの東京高校の敷地になだれ込んできた。この逸話を前に調べたことがあって、それで私が紹介されたものだ。都市の一記録としてここに紹介しおくものだ。

 山の手空襲のことは知られていない。爆撃の規模では3月10日の東京大空襲を遥かに凌ぐ。焼夷弾投下トン数が後者は2000トン、前者は、両日で6,900トンだった。これによって首都は壊滅した。その結果、「東京は攻撃のリストから外された」と言う。日本は実質的に敗北した。

私は、塚原さんとは、メッセンジャーで話をした。
「一人の詩人があの空襲のとき東京高校のプールに飛び込み、九死に一生を得ていたと思います。確かそれを詩に書いて残していますよ」

 だいぶ前の調べをして覚えていた。しかし、記憶ほど当てにならないものはない。これは正しいのか?気になって『北川冬彦全詩集』を図書館で借りた。一抱えもあるほど分厚い。めくっていくがなかなか出てこない。記憶違いかと思っていると、あった!

 詩集名は『花電車』だ。詩だと思ったが散文詩だ。この詩の版権は、生きている。最低限の引用で事実だけを伝えよう。

 冒頭は「四方火の海に取り囲まれて行き所を失い、東京高等学校のプールの中で立ち泳ぎしている」で始まっている。

(二)
どうして東京高校へ来たのだろう、この経緯については、年譜で確認できた。

昭和二十年(1945)
五月二十五日の空襲により渋谷区幡ヶ谷中町の住居を焼失。帝大付属中学(プール)に浸かって九死に一生を得る。

  幡ヶ谷中町は、現在の幡ヶ谷三丁目だ。東京高校の真南400メートルほどのところだ。当日は南風が吹いていた。B29は南の大山町方向から投弾してきて、火災が起こった。猛火である。詩人は北に逃げた。広大な空き地があるのは東京高校だけだった。もうこのときは四方が焼けていて、物凄い熱風が襲ってくる。それで校内の南西隅にあるプールに飛び込んだ。

 旧制東京高等学校は、官立唯一の7年制高校だ。大正10年に発足している。国家の人材を育てるための戦略が敷地に見られる。グランドが広い、校舎も大きい。もう一つ大事な点はプールが深いことだ。それで北川冬彦はプールに入って立ち泳ぎをした。
「頭でっかちは不要だ、プールは深くして溺れるやつは溺れろ」
頭脳を鍛え、体を丈夫にする。ここに往時の国家の戦略が見える。

(三)
 四周は猛火に包まれた。立ち泳ぎしていると水面から出た頭が頭が焼かれる。詩人は鉄兜をかぶっていた。熱い、潜ったままプールの縁に手を掛ける。「すぐに手を離さなくてはならなかった。指が焼けてしまうからだ」

 幡ヶ谷の家には妻と子とがいた。これは早めに避難させていた。彼だけが逃げ遅れて、南から火に追われて東京高校にやってきた。
 飛び込んだはいいが、背中に背負ったリュックサックが重くなる。これをやっと外したとき、声が聞こえてきた。

「もう少しよ、我慢してね、もう少しよ。我慢してね」
 
 これは母親の声だった。彼女は子を連れてプールに飛び込んでいた。プールは深い。母も子も絶えず手足を動かして沈まないようにしていた。水面に顔を出しているとやけどをする。潜っては浮き上がる。「もう少しよ。我慢してね」がせつない。
その結びだ。

 建物がすっかり焼け落ちると、頭の上から、死神を抱いて私を脅していた熱気は、はがれるように取れていった。ああ、助かった。

 母親はどうしたのか、彼は辺りを見渡した。

 美しい声の主はどうしたろう?
 見当たらない、誰も、人影とてない。

 「焼けこげの木片や風呂敷づつみらしいものが」浮かんでいるだけだった。
 男の彼がかろうじて助かった。親子は溺れて死んだのか?


…続きます。
下北沢 X 物語
このブログは世田谷区の下北沢周辺の地域の歴史を掘り下げるとともに、特攻隊を中心とした記憶と記録の掘り起こしが展開されている、平和への祈りでもあります。ぜひ読者になってください。 (文責:淺川)

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