体育祭に想う① 観ることとみられること
昨日、息子の通う公立中学校の体育祭に行ってきました。
そこで感じたことを「全校8学級のスカスカのグラウンドに保護者1名のみとか、選手による100m走・1500m走の他は集団演技(ラグビーのハカ)とクラス対抗大縄跳びと全員リレーだけという謎の構成とか、いろいろ思うところはありますが、晴天のもと実施できて良かったです。」とSNSでぽろっと呟いたら、思わぬ反響がありました。
① 「大縄跳び、特に嫌いでしたね。体育と学校嫌いになるきっかけでした。」⇒「ひっかっかった子をあからさまに詰る姿はありませんでしたが、繰り返し掛かる子に集中する「助言」が、本人には痛いだろうなと…親がみていても辛かろうと思います。」⇒「そう!それです!練習で失敗したら、責任とって運動会は参加するなとホームルームで全会一致で決議されました!私がいると負けるからと。」
…体育や運動会で深く傷つく子がいるということ、もうじき50歳を迎えようとしても、その傷は癒えないこと…
「Y市の体育大会で、六年生が、3分間でどんだけ跳べるか毎年やってます、、、自分には、意味が見出せませんでした、、、。」これは現役の先生から。⇒「団結、体力、がんばる子の姿を見てもらう…どの要素をとっても、他にいくらでも良い種目はありますよね。」
② 「そもそも学校が考える”運動会”の目的って何ですか?体育の学習発表会みたいな感じですかね?」こちらは40代前半、オーストラリア在住のお母さん。
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「歴史的には戦前の富国強兵・殖産興業政策のもとで、子どもの体力づくりが要求され、軍隊の”軍事演習・閲兵式”の発想で取り入れられたものです。訓練の成果を発表するという結節点を設けることで、そこに向けて力を高めていく取り組みです。ルネサンス期のイタリアでも神学生たちの騎馬戦(本当の馬です)が有力者たちに見守られて執り行われる様子が記録されているようですが、そういう流れを汲むものですね。
しかし、地域共同体の文化の城として学校が位置づいていく中で、親や地域の大人たちみんなが、子どもの育ちを確かめて共有する場としての性格が濃くなっていきます。上級生のがんばりや下級生の微笑ましい姿に目を細め、誰の子にも力いっぱい声援を送り合う。文化祭の前身とも言える学芸会も同じです。
また娯楽の少なかった時代、文化の城は地域共同体のハレの場として、鎮守のお祭り同様、住民が一堂に会し盛り上がる場としても機能していました。高度経済成長の頃までは、春の運動会はさながら田植えを終えた早苗饗行事のように、秋の運動会は収穫祭のように、ピクニック気分でひとが集まっていました。
やがて都市化・核家族化が進む中で、地域行事としての性格は失われて、昨今のセキュリティ重視の中で、保護者とせいぜい祖父母限定での公開に姿を変えていきます。それでも”子どもの成長をみんなで確かめ喜び合う”意味は継承されています。組体操がエスカレートしていったのも、本気でがんばる子の姿を共有したいという教員・保護者相互の想いに歯止めが効かなくなっていった結果だと思います。
中高生になってくれば、単に運動そのものだけでなく、行事を企画運営していくことを通しての成長を願ってのものになります。”行事を通して子どもは育つ”は、心ある教員の歴史的合言葉となっています。一方で、過密カリキュラムが現場に押しつけられる中で、”授業時間を圧迫する””生徒が浮かれて勉強しなくなる””正直面倒くさい”という教員の声も少数派では無くなってきています。多くの学校では残念ながら、その意味を問い返すことなくルーティンワークとして行っているのが現状だと思います。
僕は”仲間と共に行事を創り上げる””全校生徒が一堂に会して祝祭空間を共有する””からだの関わりを深める””保護者に生き生きとした姿を見てもらう”という四つを大切に考えています。」
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「そうなんですね… 全然知りませんでした。で、その誰にも主旨が伝えられてないっていうところに一番の問題があると思うんです。
学校のFacebookとかニュースレターとかで行事の意味や主旨を発表したら、親達の期待するところとかもちょっとずつ変わっていくと思います。
小学校では先生たちが発信することになりますが、プリント配るよりはメール配信の方が効率的だし、高学年の生徒会が主体になっても大丈夫なはず。
事前事前のコミュニケーション不足のツケが学校にも親にもどちらにも負担を強いる結果を招いているように見えてすごく残念です。色々前時代的なんですかね…」
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「保護者にも伝える、というところは学校便りや学年便りを通して、形式的にはおこなわれているのだと思います。そのあたりも、今後ペーパーレス化が進行する中で変化していくだろうけど。せっかくの情報技術が活かされていないのは残念なことです。
しかしより深刻なのは ”いま、うちの児童・生徒にはこんな課題があるから、今年の運動会はそこを狙っていきたいね”といった茶飲み話や、会議で議論する文化が学校現場から失われつつある、ということだと思っています。ましてや、児童会や生徒実行委員会と真剣にその点を話し合って、対等な立場で内容や運営について検討する…という”子どもの権利条約”の精神は全く根付いていないのが現実です。」
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「息子の通う幼稚園では、保護者に対してのお披露目的な運動会はなかった。子供達が楽しむためのスポーツデイというものはあったけれど。(今年は、もうコロナであれこれ中止になっているので、何にもありませんが。)小中高でも、お披露目的なものはないように思います。インターナショナルスクールだからと理解しているけれど、たぶん、香港の公立の学校でもないんじゃないかなーと思ってます(聞いたことないから)。日本のインターナショナルスクールはどうなんでしょうね?」とは香港在住のお母さん。やはりそれぞれの地域の歴史や文化が反映しますね。
③ 「うちの学校は3年生の保護者は全員参観OKでした。最後だもの見せてあげなきゃね。合唱コンクールも無事終わり、あとは修学旅行と文化祭が11月にあります。」と宮城県の中学教員。「明日、中3の娘の体育祭ですが、保護者観覧禁止です😭
見られることを願って、職場に休み申請していましたが、取り下げました。最終学年の体育祭、観たかった😥
」こちらは神奈川県のお母さん。「ウチの1号は6回見に行きましたが毎年何処にいるわからず。先日の2号運動会ネット鑑賞も微妙。私は自身の学生時代運動会も体育祭も大嫌いでした。でも運動会は親のためにもあると今は実感。夫婦関係悪化で親が観にこないで泣きじゃくる1号の小学生時代の同級生に弁当分けてあげてなぐさめたり運動会にはいろいろ思いがありここには書ききれませんが、五輪なんかよりよほど意義があるイベントなのは確かです。」とは66回生のお父さん。
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「東大附属も”外で密にならないんだから、保護者に入ってもらいましょう!”という提案が議論されましたが、慎重論を覆すには至りませんでした。せめて映像を、ということで使い途の宙に浮いたPTA予算をやりくりして、業者さんにお願いしました。本部役員と広報委員の親御さんたちががんばってBGMの著作権処理や肖像権クリアして、限定配信・無料ダウンロードの運びです。
しかしお父さんが「微妙」とおっしゃるように、映像からは観る側・応援する側の身体性が抜け落ちてしまい、演じる側・競技する側との交感が生まれる余地がありません。海外でサッカー日本代表の試合が「無観客」で実施されたとき、スタジアムの外にサポーターが大勢駆けつけて、笛太鼓を鳴らし声を限りに応援した、あの姿。互いに姿は見えなくとも、そういう魂の交換がすごく大切なことのように感じました。
あるいはJリーグの試合や代表戦でも、スタジアムに行けないサポーターが、パブや居酒屋で中継映像を見ながら盛り上がる「パブリックビューイング」。そこに生じている身体性にこそ、運動会で大切にすべき何かが現れているのかもしれません。
コロナ禍のもとで、学校から抜け落ちてしまいがちな身体性を、いかに感染拡大防止と両立させていくのか、そこが大切な教育の課題となっていると思います。しばらく前の記事に取り上げました、教育学部のウェビナーシンポジウムにも、そうした観点でお話ししています。(文責:淺川)